砲台用ケヤキ運搬のため道普請をせよ

砲台用ケヤキ運搬のため道普請をせよ

 ーペリーが去った直後の江戸湾の警備と村ー


 幕末の日本を大きく変えたペリー来航です。嘉永6年(1853)

・6月3日、真っ黒な船体に蒸気を吹き上げて江戸湾に姿を現し

・6月9日、久里浜に上陸、大統領親書の受け渡しが行われ

・6月10日~11日、幕府の抗議を尻目に、江戸湾奥深く進入し、測量を継続して

・6月12日、明春に再来することを告げて、大砲を発射しながら江戸湾を去りました。


 江戸市中はおお騒ぎで、物価があがり、庶民は苦労しました。狭山丘陵周辺でも中藤村(武蔵村山市)の指田(さしだ)さんが

・6月11日、雷。当月、異国黒船、相州浦賀に入り、海手所々の固めあり、然れども、江戸に船入る事能わず、諸色高直(しょしきこうじき)になる、在々織物の類を買う者少なく、値段安く、織る者 難渋(なんじゅう)す(『指田日記』上p243)

 と日記に書きました。(諸色高直=いろいろな物の値段が高くなる)



[caption id="attachment_3286" align="aligncenter" width="200"] 江戸湾台場建設の調査 大筒台車台用ケヤキ運搬 参考・浜川砲台位置

クリックで大[/caption]

江戸湾巡視 台場の建設


 江戸湾を含め幕府あげての対応が続きます。今後の防備態勢が再検討されます。代官江川太郎左衛門と東大和市周辺の動きに絞ります。『東京百年史』は次のように記します。


 「ペリーが退去してから六日目、幕府は江戸湾防備のため、若年寄・本多忠徳(ほんだだだのり)に武藏・相模・安房・上総海岸の巡視を命じた。

 この一行には勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)や江川太郎左衛門らが加わっていた。

 忠徳らは熱心に防備施設の状態を調査した後、内海防備の充実を強調し、台場の設置を進言した。当初の計画は

・第一線を観音崎と富津洲に、

・第二線を横濱本牧と木更津、

・第三線を羽田沖、

・第四線を品川沖として台場構築を案出したという。

 当初の計画案によると、一一ヶの砲塁を築く見積りで、

・南品川猟師町より東北深川洲崎の海岸に連珠のように二列一一基と、

・品川猟師町の海岸に一ヵ所と合計十二ヵ所の砲台を築造の予定であった。(港区史)」

(『東京百年史』第一巻p1440)


・6月19日、江川太郎左衛門(英龍)は勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)格を命じられました。地方の役人から、幕政に参与できる立場への昇格です。

  英龍は、かねてからの海防に対する想いをこの時とばかり吐露します。

 軍船の購入、製造、航行の習熟、海外渡航まで説いたとされます。その中で、上記の台場建設が進言されました。


青梅街道を大筒(おおつつ)車台用ケヤキが運ばれる


 まだ、台場建設が決定される前です。江戸湾防備の一環でしょう。7月になると、東大和市周辺に動きが起こります。嘉永六年『里正日誌』の記事です。


・7月5日、代官勝田次郎より

 ・大筒(おおつつ)車台用材として青梅村(東京都青梅市)のケヤキ類を伐り出し、

 ・小川(小平市)→柳沢(やぎさわ 田無市)→中野(中野区)→内藤新宿(新宿区)、

 ・吉祥寺(武蔵野市)→無礼(むれ 三鷹市)→仙川(三鷹市・調布市)→上下高井戸(杉並区)→内藤新宿

 ・まで運び出し、道中差支えなく通行させるようにせよ

 との命令が出されます。


 『所沢市史』は

 「負担額は不明であるが、軍需物資最優先の姿勢がうかがわれる。」(『所沢市史』上p802)とします。

 次いで、『指田日記』は


・7月9日、大筒台(おおつつだい)の御用木、青梅入りより出るにより、新江戸街道の普請人足村々に当たる(『指田日記』上p243)として、

・青梅から大筒台の御用木を運ぶので、これに支障のないように、

・新江戸街道=現在の桜街道を整備せよ

 との命令が来て、村人が道普請をしたことが記されます。

 東大和市域も通過しました。現在のイトーヨーカドー、ヤオコーの間を通る道です。


 当時の道筋の様子は御嶽菅笠の青梅橋図で想像できます。



[caption id="attachment_3287" align="aligncenter" width="400"] 天保5年(1834)、御嶽山で発行した道中案内『御嶽菅笠』による現・桜街道・青梅橋周辺の図です。

クリックッで大[/caption] [caption id="attachment_3288" align="aligncenter" width="400"] 上図の千本桜~東大和市駅の書き込みがあるあたりの現在の姿です。

クリックで大[/caption]

 この道を

・江戸時代初期には江戸城や町家建設のための石灰が運ばれ

・幕末には砲台づくりのケヤキの木材が息せき切って運ばれました。

 

大筒車台とは?


 この時期にはまだ江戸湾の中への台場の建設は決まっていないので、湾岸に設けられた従来の砲台に「大筒」を備えることが緊急に行われたことがわかります。運ばれたケヤキが実際に、どのような「大筒車台(おおつつしゃだい)」に使われたのか把握できません。是非お教え下さるようお願いいたします。翌年の嘉永7年(1854)に造られた品川区東大井の「浜川砲台」(新浜川公園内)がとても参考になります。手持ちの画像がないので、韮山の江川家住宅に展示されている「ボートホイッスル砲」のレプリカを添付します。



[caption id="attachment_3289" align="aligncenter" width="400"] 伊豆韮山 重要文化財江川家住宅に展示されている「ボートホイッスル砲」のレプリカ

クリックで大[/caption]

雨乞いの中で緊張が伝わる


 地元の状況です。村人が道普請にかり出される一方で、

・17日、原山雨乞い

・18日、原山請雨

・21日、太神宮神楽、夜、説教浄瑠璃(せっきょうじょうるり)連来る

 と、

◎雨が少なかったのでしょう、雨乞いが行われ

◎神楽が奏上され、説教浄瑠璃が演ぜられる一面もありました。


 一方、対外的には

・7月18日、ロシア使節プチャーチン、軍艦4隻を率いて長崎に来航する。

と更に緊張が高まり、

・7月23日、英龍、品川台場建設を拝命

・8月2日、英龍、幕府海防掛に任ぜられる


 と品川台場の建設が決まり、狭山丘陵周辺を治める代官江川太郎左衛門英龍は一挙に重要局面に名を現わしてきます。それに応じて村人達にも慌ただしい時代が訪れます。


 台場の建設、松材切り出しに記します。


 (2020.06.15.記 文責・安島)


 黒船来航と村(嘉永6年)


 東大和の歴史・近世


 大まかな歴史の流れ 5 近世 5 幕末の緊張

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黒船来航と村(嘉永6年)

黒船来航と村(嘉永6年)


 泰平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん 蒸気船)

   たった四はいで夜も寝られず


 黒船来航を機に江戸市中で、はやったという川柳です。上喜撰はお茶で、4はいと4隻がかけられて、当時の皮肉な状況を思い起こさせます。

 嘉永6年(1853)6月3日です。伊豆半島沖に、江戸湾警備の物見の注進、追いすがる日本の小型船を尻目にして、巨大な4隻の黒船が姿を現しました。蒸気を吐きながら帆船を引き連れて、午後4時、浦賀沖を通過、観音崎の沖に碇を降ろしました。


 アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが引き連れる

 旗艦サスケハナ号と帆走軍艦サラトガ号

 蒸気軍艦ミシシッピ号と帆走軍艦プリマス号です。



[caption id="attachment_3283" align="aligncenter" width="200"] 江戸湾と警備の状況

クリックで大[/caption]

 幕府はすでにオランダから「別段風説書」(べつだんふうせつがき)で、修好通商を求めるフィルモア・アメリカ大統領の親書を持ってペリ-が来航するとの情報を受けていたとされます。しかし、いざ目の前の現実となると、さぞ、慌てふためいたと想像されます。

 その中で、情報は驚くほど早く村に伝わります。

◎引又村(ひきまたむら 志木市)の名主星野半右衛門は、6月3日、「両三日已前より浦賀沖に異国船相見候由にて、川越様より早飛脚(はやびきゃく)度々(たびたび)通り、・・・」(『志木市史』上p655)

◎小野路村(おのじむら 町田市小野路町)の名主小島鹿之助は「6月8日、浦賀沖に異国船数艘参り、江戸表は大変の由、承り候」

◎中藤村(なかとうむら 武蔵村山市)の指田氏(さしだし)は「6月11日、雷。当月、異国黒船相州浦賀に入り、海手所々の固めあり、然れども、江戸に船入る事能わず。諸色高直(しょしきこうじき 物価があがる)になる、在々織物の類を買う者少なく、値段安く織る者難渋す」(『指田日記』)

 と日記に書きました。恐るべき情報伝達網です。

 

 多摩地方を治めていた代官江川太郎左衛門は、6月3日夕刻、韮山で異国船来航の知らせを受けたとされます。江戸の江川事務所から東大和市域の村々にどのように伝えられたのか調べていますがまだつかめていません。名主が親しく交流していたことから一定の情報が届けられていたと推測します。


江戸湾の固めと川越藩


 ペリーが来航した時、江戸湾の防衛は

 ・相模側に川越藩・彦根藩

 ・房総側に忍藩(おしはん)・会津藩を配置する

  「御固(おかため)四家体制」をとり、さらに、

 ・浦賀周辺を浦賀奉行所が受け持つという体制をとっていました。各藩は先にあげた図のように受け持ち区域を定めていました。


 三浦半島 走水・観音崎が川越藩

      栗濱(久里浜)・野比・松輪・三崎が彦根藩

 房総半島 富津より竹ケ岡にいたるまでが会津藩

      大房より洲崎にいたる間が忍藩


 引又の星野名主がペリー来航について即日情報を得ることができたのは川越藩の早飛脚からとしています。川越藩は三浦半島の東南部に拠点を置き、台場を築き砲台を備えていました。江戸湾から隅田川、荒川の川伝いに引又(志木)を通って川越まで通信網が発達していたようです。 


幕府とペリーの交渉


 幕府とペリーの交渉が始まります。

・6月4日、サスケハナ艦上でペリーと与力中島喜三郎助、香山栄左衛門(かやま)が面接、会談しました。

 ・ペリーは持参した大統領親書の受け取りを要求します。

 ・香山は長崎行きを主張、ペリーは拒否しました。

・6月6日、ペリーは黒船に護衛させた測量艇を江戸湾深く侵入させて幕府を威嚇(いかく)します。

・6月6日~7日、幕府は、要職者が総登城して、深夜まで評議を続けました。結果、開港の是非に答えず、ペリーの申し入れの親書の受領のみを決定します。

 ペリーは浦賀での手交を主張しました。

◎この間、江戸町民は避難場所を探し、武士は武具屋・馬具屋に殺到して価格が2~3倍に上がったとされます。

 幕府は久里浜に接待所をつくり、親書受取を決めます。

・6月9日、ペリーは久里浜に上陸、大統領親書を浦賀奉行戸田伊豆守氏栄(とだ いずのかみうじよし)、井戸岩見守弘道(いど いわみのかみひろみち)が受け取りました。



[caption id="attachment_3280" align="aligncenter" width="400"] かっての久里浜に立つ「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」 神奈川県横須賀市久里浜7-14 右側の建物がペリー記念館

クリックで大[/caption] [caption id="attachment_3281" align="aligncenter" width="400"] ペリー上陸の図(ペリー記念館2階)クリックで大[/caption]

 国書の受理式には、江戸湾の海防を担当する、忍(おし)、川越、彦根、会津の譜代四藩の武装兵300余名が立ち会っています。(『所沢市史』上p797)

 幕の後ろでしょうか?


 一旦、落着かに見えましたが、どうして、どうしてペリーはしたたかでした。

・6月10日、ペリーは江戸湾奥深く進入し、測量を継続しました。

 幕府は抗議を続けますが、翌11日も測量が行われました。国書受取の場を知るためとの理由でした。

・6月12日、ペリーは親書の回答受取りのため明春に再来することを告げ、大砲を発射しながら江戸湾を去りました。


台場建設を決定


 ペリーが去った後

◎幕府は米国大統領親書の翻訳と対外情勢の分析、対応に追われます。

・6月19日、江川太郎左衛門が勘定吟味役格に任命され、海防の会議に参画することになります。

 江川は若年寄本田忠徳(ただのり)らと江戸湾防御のための検分をします。

◎老中阿部正弘は思わぬ行動に出ました。

・7月1日、老中阿部正弘は米国大統領親書を諸大名に示し、意見を求めました。

 これまでに前例がなく、幕政の大転換と評されます。

・7月3日、同様に、将軍御目見以上の幕吏に諮問。

・7月3日、前水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)に海防について意見を求め、海防参与に任命しました。

・7月8日、徳川斉昭が海防の大本に関し意見10条を建議しました。

 など、次々と海防に関する動きが起こりました。

 はっきりしたのは、幕府の反対にもかかわらず、ペリーが江戸湾に侵入して測量するに至って、「御固四家体制」では限界があることでした。江戸湾内への防衛施設の整備が課題となりました。


 そこで、積極的に提案されたのが、台場建設でした。東大和市はここから関係が出てきます。

 ページを改めます。


  (2020.06.08.記 文責・安島)


 砲台用ケヤキ運搬のため道普請をせよ(安政6年・1853)


 東大和の歴史・近世


 大まかな歴史の流れ 5 近世 5 幕末の緊張


 

幻に消えた村山軽便鉄道2

幻に消えた村山軽便鉄道2


 さて、いつ出来るのか? 村人達、村山貯水池建設関係者は最大の関心事として見守ったことでしょう。こうして調べている者も気をもみます。

 ところが、ところがです。どうしたことか、免許が下付された同じ年に計画は突然頓挫してしまいました。しかも、権利が他の鉄道事業者に売り渡されます。


・大正4年(1915)3月25日、総理大臣から村山軽便鉄道に免許状が下付されました。なんと、その12月です。

・大正4年12月28日、発起人総代より首相に対して、村山軽便鉄道敷設の権利を一切、川越鉄道に譲渡する旨が申請されました。

 知りたい経緯は不明です。

 第一次世界大戦の影響による経済的事情、政治的背景、他の鉄道事業との関連などの指摘があります。

・大正5年(1916)3月1日、工事施行認可申請を延期

・大正5年5月20日、譲渡が許可されました。

 この間、何があったのか?知りたいです。



[caption id="attachment_3005" align="aligncenter" width="400"] 村山軽便鉄道目論見図 ごく大まかな概念図です。(クリックで大)[/caption]

免許は新しい路線に生まれ変わった


・大正11年(1922)、川越鉄道は西武鉄道と改称し、新しい会社になりました。この間いろいろ変化がありましたが、ややこしいので、現・西武鉄道と区別して、旧・西武鉄道として書きます。

・昭和2年(1927)、旧・西武鉄道は旧村山軽便鉄道の免許を流用する形で、東村山~高田馬場(仮駅)間を開業しました。村山線と呼ばれました。

・昭和5年(1930)、旧・西武鉄道は村山線を延長して、東村山~村山貯水池前間を開業しました。

 旧村山軽便鉄道の免許の一部で、現在の西武園線の原型となりました。

 村山貯水池前から箱根ヶ崎までについては、工事施工認可申請の延期を繰り返しましたが、着工はしませんでした。

・昭和6年(1931)、工事施工認可申請の延期は認められず、村山貯水池前から箱根ヶ崎間は実現しないまま、免許取消となりました。

 このことを調べている際、発起人の一人であった奈良橋村の根岸菊太郎の身内の方が

 「その報告を受けたときに、菊太郎は地団駄(じたんだ)踏んで悔しがった」

と話されたのを聞き、怒りの実感が伝わりました。


その形跡が残されている


 さても、村山軽便鉄道が生まれなかったことは残念至極です。今も、青梅街道、新青梅街道周辺を通るとその思いが増します。せめて、西武新宿線が生まれたことで、メデタシ・メデタシとするのでしょうか。


 『東大和市史資料編』2は、「免許は現在の西武鉄道新宿線、西武園線へと、形を変えて継承されている」(p161)とします。

 武蔵大和駅付近の高架橋に「箱根ヶ崎架道橋」と不思議な名前が付けられています。由来を遡ると、幻の村山軽便鉄道にもたどり着けるのでしょうか。



[caption id="attachment_3007" align="aligncenter" width="400"] 武蔵大和駅ホームからの箱根ヶ崎架道橋の表示 クリックで大[/caption] [caption id="attachment_3008" align="aligncenter" width="400"] 志木街道に架かる高架橋(2015.03.22.の状況 現在、この表示は左、向こう側に書かれている クリックで大)[/caption]


 貯水池建設の資材運搬に使用を目論んだ東京市は、軽便鉄道が利用できず、直営で東村山軽便軌條を敷設することになりました。

 結局は、箱根ヶ崎~東村山間を通る鉄道は実現できませんでした。しかし、通して考えると、大正初期の人々のエネルギの凄さに圧倒されます。


  (2019.12.23.記 文責・安島)


 幻に消えた村山軽便鉄道1


 村山貯水池の建設


 東大和の歴史・現代


 

幻に消えた村山軽便鉄道1

幻に消えた村山軽便鉄道1


 もし出来ていれば、狭山丘陵南麓は、今頃、どのようになっていたかと興味津々です。

 東大和付近の人々にとって、甲武鉄道(現・中央線)と川越線(現・西武鉄道国分寺線)が唯一の鉄道でした。そこへ、狭山丘陵南麓に鉄道を敷こうと云うのです。

 まだ八高線もない時代、箱根ヶ崎から豊多摩郡戸塚村(現・新宿区)までの路線です。

 話は、村山貯水池の建設に併せて出てきました。それにしても、驚くべき素早さです!!


 大正2年(1913)9月7日、村山貯水池の建設について内閣の認可がなされ、11月、建設事務所が設けられて、測量が始められようとしました。なんと、早くも、その年

 大正2年12月14日、村山地方に軽便鉄道を敷設したいとの申請が総理大臣(山本権兵衛)に行われました。

 創立発起人は

 北多摩郡 中藤、岸、三ッ木村、田無町、東村山、小平、芋窪、蔵敷、高木、奈良橋、狭山、郷地

 西多摩郡 殿ヶ谷、石畑、箱根ヶ崎

 南多摩郡 八王子町、

 東京市  日本橋、麹町、四谷

 の各地域の豪農、有力者達の総勢42人の面々です。東大和市域内では、芋窪村・尾又高次郎、蔵敷村・内野杢左衛門、奈良橋村・根岸菊太郎、高木村・宮鍋庄太郎、狭山村・関田安右衛門の各氏が名を連ねています。


  申請の内容は

・村山軽便鉄道株式会社を創設する

・東京府西多摩郡箱根ヶ崎村を起点として、北多摩郡東村山村、田無町を経由、豊多摩郡戸塚村に至る区間35.4㌔に蒸気鉄道を敷設する

・沿線には、八国山、久米川古戦場、狭山および狭山池の風光等、風光明媚な名勝旧蹟が多い

・ちかく東京市が貯水池を築造する計画がある

・この地勢を利用して貯水池を囲む一大遊園地を設置する

・東京より人びとがやってきて、一日遊覧する好適所となる

・村山貯水池築造に要する材料運搬の利便をはかる

・交通空白地帯の解消をはかり、沿線の乗客、および貨物運輸に資する

 というものでした。


 目論見書には

・資本金120万円、本社を東村山におく

・路線は西多摩郡箱根ヶ崎-石畑村-殿ヶ谷村-北多摩郡岸村-三ッ木村-中藤村-芋窪村-蔵敷村-奈良橋村-高木村-狭山村-清水村-東村山村-久留米村-田無町-保谷村-北豊島郡石神井村-井荻村-杉並村-落合村-戸塚村とする

 となっていました。村山貯水池建設用の資材運搬が背景にあることに要注意です。



[caption id="attachment_3005" align="aligncenter" width="400"] 村山軽便鉄道目論見図 ごく大まかな概念図です。(クリックで大)[/caption]

  経過

・大正3年(1914)1月28日、東京府は、北多摩、西多摩、北豊島(概ね豊島区、北区、荒川区、板橋区、練馬区)、豊多摩郡(渋谷区・中野区・杉並区および新宿区の一部)の郡長に意見を求めました。

 西多摩関係は、公益上有用、産業発展の重要な機関など、おおむね賛成意見

 豊多摩郡関係は、工事に関し調査しがたいが、起業の効用に関しては支障がない

 との回答が寄せられました。

・大正3年5月頃、発起人に申請は「却下」、「廃案」の空気が伝わりました。

・大正3年6月29日、発起人は、「村山軽便鉄道ヲ川越線以西ニ短縮」することについて検討します。

・大正3年7月13日、関係する村長などが連名で内閣総理大臣(大隈重信)に促進のための上申書を提出しました。

 煩雑ですが、当時の村名がわかりますので、記しておきます。

 北多摩郡中藤村外二か村組合村長、東村山村長、高木村外五か村組合村長、小平村長、田無町長、西多摩郡箱根ヶ崎村他三か村組合村長、北豊島郡石神井村長、豊多摩郡井荻村長、野方村長でした。


・大正4年(1915)2月8日、敷設案が、

 ・資本金を120万円からが155万円に、

 ・路線が田無村から東南に曲がり

 ・終点が豊多摩郡戸塚村から北多摩郡武蔵野村吉祥寺に

 変更されました、総延長23.1㌔になりました。


 ルートは、現在の青梅街道と新青梅街道の中間地点を東西に走る予定で、停車場は、箱根ヶ崎(瑞穂町)―中藤(武蔵村山市)―奈良橋(東大和市)―大岱(東村山市)―田無―吉祥寺と変わりました。

・大正4年3月25日、総理大臣から免許状が下付されました。

 ・レールは国産品を使うこと、

 ・東京市水道拡張事業(村山貯水池建設等)に支障を及ぼさないこと

 などの条件が記されていました。長くなるので次に続けます


 (2019.12.22.記)


 幻に消えた村山軽便鉄道2 


 村山貯水池の建設


 東大和の歴史・現代


 大まかな歴史の流れ 6現代 2大正時代

豊鹿島神社本殿の棟札4(東大和市)

豊鹿島神社本殿の棟札4


 豊鹿島神社本殿の棟札の続きです。慶長六年(1601)、正保三年(1646)の二枚について記します。特色は、施主がはっきりして、徳川家康、家光の家臣で、芋窪村(いもくぼむら)をおさめる地頭が大旦那になっています。


・慶長六年(1601)は徳川家康の直属の家臣・酒井筑前守と同強蔵

・正保三年(1646)は三代将軍家光の家臣・酒井極之助


 また、正保三年(1646)棟札では、大工がこれまで続いてきた地元の乙幡氏ではなく、現在の大阪府堺市の高橋氏に変わっています。どうしたことでしょうか?


(4)慶長六年(1601)棟札



[caption id="attachment_2998" align="aligncenter" width="200"] 豊鹿島神社本殿棟札 慶長6年(1601) クリックで大[/caption]

 

    武州多東郡奈良橋内芋窪 神主若満

                      鴨久兵衛 同□太ろう □野善□□ 

           □□□□衛門 木村□左衛門

  奉造立鹿嶋大明神社頭一宇之事

      大旦那酒井筑前守 同 強蔵殿 

        番匠大工乙幡正左衛門

     慶長六年(1601)戌丑二月朔日施主敬白



  記入なし。


施主の酒井氏は徳川家から配属された地頭様


  慶長6年(1601)の棟札に記される大旦那酒井氏は、東大和市域に最初に配属された徳川家康の直属の家臣です。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻撃により八王子城(6月23日)、小田原城(7月5日)が開城し、後北条氏の時代が終わりました。


 同年7月13日、秀吉は論功行賞の一環として家康の関東移封を発表します。家康は三河に帰らず江戸に入ります。翌、天正19年(1591)5月、家康は江戸城、江戸市街の整備をする前に家臣団を関東に配属し、狭山丘陵周辺には直属の家臣を配置しました。

 この時、東大和市域内で、芋窪村と高木村に配属されたのが酒井極之助実明でした。知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)は発見されていません。


 他の資料から、芋窪村380石、高木村70石と村名と知行高が決められていたことがわかります。

 酒井氏は江戸が未整備なため、地元に陣屋を構え家族とともに生活しました。当初は陣屋の建設も間に合わず、旧家を利用したとされます。地元では地頭と呼ばれ、地頭畑を耕し、年貢の賦課をしました。

 江戸へは江戸街道(東大和市内ではおおむね現在の新青梅街道→東京街道団地北側→久米川→田無橋場)を馬で通勤登城しました。


 そのような状況で、慶長6年(1601)、豊鹿島神社本殿が修復されました。注目は、その棟札に従来とは違って、

・大旦那の氏名に実存した地頭の名が書かれ、

・上奈良橋郷の記載がなくなり、「武州多東郡奈良橋内芋窪」と初めて芋窪村という村の存在が明らかになった

   ことです。



[caption id="attachment_2988" align="aligncenter" width="400"] 江戸時代初期、村切りによって作られた東大和市域内の近世の村 クリックで大[/caption]

 この段階で、他の地域についても、奈良橋村、高木村、後ヶ谷村(うしろがやむら)、清水村(しみずむら)の名称が現れてきます。後には宅部村(やけべむら)がつくられます。家康の家臣を配置するにあたり、租税対象を明確にする上からも、散在していた集落を一定の範囲で区切って村をつくる、いわゆる「村切り」が行われたものと推測します。 


 また、参鴨久兵衛(みかも) 同□太ろう □野善□□ □□□□衛門 木村□左衛門などの人名は芋窪村の村人達であり、この時期に、領主と村人が共同で豊鹿島神社本殿を修築したことが偲ばれます。


 また、前年の慶長5年(1600)9月15日、関ケ原の合戦が行われました。地頭の酒井氏も出陣し、その際、神主若満が同道したと伝えられます。


(5)正保三年(1646)棟札


 本殿棟札として残る最後の棟札です。徳川家三代将軍家光の時代に改修されました。



[caption id="attachment_2999" align="aligncenter" width="200"] 豊鹿島神社本殿棟札 正保3年(1646) クリックで大[/caption]



    天下大平国土安全 神主石井出羽守 三十二才也 

             大工 泉州玉鳥之郷境の住人高橋長右衛門源吉正

  奉造栄鹿嶋大神宮御宝殿 現世安穏如意満足処成就

    正保三年(1646)丙戌歳六月良辰

    天下者武州江戸三代□□家光の御代の比 大施主 酒井極之助重忠



   武州多麻府上奈良橋郷 神主若満(花押)

              藤原朝臣□□吉次□住


 天下太平、国土安全、現世安穏の祈願が成就したことを称え、地頭の酒井極之助が大施主になっています。


 地頭の酒井氏は酒井兵左衛門実明(極之助)が初代で、近江国鎌波の城主土肥近江守実秀の子でした。落城後に家老の酒井姓を名のり甲斐国武田家に仕えました。武田家が没落したのちに家康に仕え、天正19年(1591)に、芋窪村380石、高木村70石、合計450石を拝領しています。今回紹介する正保3年(1646)の大施主である酒井極之助重忠はその一族です。    


 もう一つ注目されるのが、修理工事を担当した大工さんです。棟札に「大工 泉州玉(王)鳥之郷境の住人高橋長右衛門源吉正」と記されます。現在の大阪府堺市と考えられます。『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)に「大鳥郷」があり、「大鳥郡」→「堺市」と辿れます。



[caption id="attachment_3000" align="aligncenter" width="200"] 豊鹿島神社本殿棟札 正保3年 『豊鹿島神社本殿修理報告書』p102 クリックで大[/caption]

 青梅市の住吉神社本殿の正徳6年(1716)棟札に「本国泉州住処武州江戸大工棟梁貝塚作右衛門奉入」と記されているようですが、豊鹿島神社本殿の場合「泉州玉(王)鳥之郷境の住人」となっています。このような遠方から、なぜ、芋窪まで大工さんが来たのか気になります。お気づきの方、是非お教え願いたくお願い致します。


 豊鹿島神社本殿は東大和市の宝です。


   (2019.12.13.記 文責・安島)


 豊鹿島神社本殿の棟札1(文正元年・1466)


 豊鹿島神社本殿の棟札2(天文19年・1550)


 豊鹿島神社本殿の棟札3(天正4年・1576)


 豊鹿島神社1(参道から石)  豊鹿島神社2(前庭・境内社・奥宮・要石)


  豊鹿島神社の歴史


  豊鹿島神社に関わる地誌の記録

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